人を殺すということ
角川の編集さんと名古屋のホテルで、少し先の仕事について打ち合わせ。
帰りに本屋へ寄ったら、そのとき話に出てきたはやみねかおるさんのインタビュー記事を掲載したダ・ヴィンチがまだ売られていた。新作『僕と先輩のマジカル・ライフ』に関したインタビューだったが、途中で僕の名前が出てくる。
「私は殺人を書いたことがないのですが、これは太田忠司先生から『自分たちは紙の上とはいえ人を殺しているんだから、それだけの覚悟がないといけませんよ』というお話を伺ったので、自分にそこまでの覚悟がないからなんです」
たしかに僕、はやみねさんと初めてお会いしたときに、この話をした。というか、これは僕の基本姿勢なので、創作について話をするときにはたいていこの話をすると思う。もちろんこれは僕自身の倫理的な心構えでもあるのだが、それだけでなくミステリを面白くするためにも必要な認識だと思っている。
ミステリにおいて多くの場合殺人がストーリーの中心になるのは、それがとても残酷で許せない行為だからである。だからこそサスペンスが増し、事件を解決しなければという物語の方向性もはっきりするのだ。もし記号的に人を殺していくだけの物語にしてしまえば、事件解決へのモチベーションも下がってしまうし、解決したときのカタルシスも減じてしまうだろう。
ミステリは安易に人を殺しすぎる、という批判があるが、それは安易に殺すミステリが多すぎるからだ。僕の認識では本格ミステリほど人の死を大事に扱っているエンタテイメント小説はないと思う。たったひとりの死のために綿密に練られたトリックが散りばめられ、それを名探偵が智力をを振り絞って解決するのだ。
現実において、人はただ死ぬ。それだけで意味はない。そのまったく無意味な「死」になんとかして意味を付けようとする作業がミステリには肝要なのだ、と僕は信じている。
ただ、無意味な死を書かない、ということは正直なところ、できないだろう。僕自身、たとえば宿少では無意味に大量に殺されていく人々を書いている。小説を書いていく以上、そうした死を描くことは、やはり避け得ない場合もある。
僕の話がはやみねさんの創作姿勢を歪めてしまった、と考えるのは傲慢に過ぎるだろうけど(それがはやみねさんの選び取った道なのだから)、はやみねさんなりの覚悟ができたなら、はやみねさんの殺人事件を読んでみたいと思う。
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