ショートショートの炊き出し『友達のこと』その6
『蜂蜜――トウジのこと』
眼が覚めたのは朝十時過ぎ。当然のことながら午前中の講義には間に合わない。ま、いいか。今日はばっくれる。それでなくても二日酔いの頭はガンガン痛むし。
トウジは毛布に包まったまま、まだ寝ている。
トイレを済まして顔を洗ってから台所に立つ。食パンをトースターに放り込み、ベーコンをカリカリに焼いて、染み出た脂で目玉焼きを作った。ヨーグルトを取り分けてコーヒーを沸かす。
その匂いに誘われたのか、トウジがもぞもぞと起きてきた。
「お、朝飯作ってるのか」
「おまえの分もある」
「悪いな。泊めてもらったうえにさ」
さして恐縮している口調ではなかった。
昨日は何人かで夜中まで飲んだ。そして終電を逃したトウジが俺のアパートに転がり込んできたというわけだ。
ふたりでテーブルを囲んで朝食となった。
「野菜とかなくて悪いな」
「いやいや、ヨーグルトが付いてる分、おふくろが作る朝飯より豪勢だ」
トーストにバターを塗り、齧りつく。
「美味い! おまえトースト作るの上手いな」
「誉めるならトースターを誉めてくれ」
言葉を返しながらヨーグルトに蜂蜜を入れた。甘いものが欲しかったので、今日は少し多めにすると、蜂蜜のチューブをトウジに回した。
見るとトウジは固まったように動かない。
「どうした?」
「おまえ、ヨーグルトに蜂蜜入れるの?」
「砂糖の代わりだけど。変か」
「いや……ごめん、俺、蜂蜜駄目なんだ」
「そうか。じゃあ砂糖を出すよ」
ヨーグルトに付いてきたフロストシュガーを渡す。トウジはそれをヨーグルトに振り入れていたが、視線は蜂蜜のチューブに注がれていた。
「何か気になるのか」
「……ああ、蜂蜜が」
「見るのもいや?」
「……悪いけど」
肩を竦め、蜂蜜チューブを片付ける。
「蜂蜜にトラウマでもあるのかよ?」
と冗談めかして訊いたら、少しの間を置いて彼は言った。
「ある。聞いてくれるか」
「湿っぽい話でなきゃな」
「そういうんじゃない。笑い話だ」
トウジは言った。
「あれは小学校六年のときだった。夏休みにじいちゃんの家に泊まりに行った。すごい田舍でさ、カブトムシやクワガタがたくさん採れたよ」
その日もトウジは朝から虫取りをしていた。藪の中に入り込んで虫籠いっぱい虫を採った。
気がつくと腕に血がついていた。藪の葉っぱで切ったらしい。痛くはなかったが、血が結構出ていた。
トウジが家に帰ると彼の祖父さんは血を流している孫を見て驚いた。そして、
「待っとれ。すぐになんとかしてやる」
祖父さんが持ってきたのは瓶に入った蜂蜜だった。それを指で掬い上げると、トウジの傷口に塗り付けた。
「蜂蜜には殺菌効果がある。どんな菌も蜂蜜の中では生きていけん」
さすがじいちゃんは物知りだな、とトウジは感心した。そして昼御飯を食べると、また虫取りに飛び出して行った。
午前中と同じくらい、虫は面白いように採れた。トウジは無我夢中であちこちを駆け回った。
「――さんざん歩き回ってヘトヘトになって、じいちゃんの家に帰ろうとしたときだ。いきなり腕のあたりがチクリと痛くなった。見ると傷をつけたあたりに蟻がびっしりと集っていた。いつの間にか蟻がよじ登ってきて、蜂蜜の匂いのする俺の腕に噛み付いたんだ」
トウジは顔を歪ませた。そのときのことを思い出したのだろう。
「なんだよ、グロい話じゃないか」
俺も渋い顔になった。
「朝からそんな話するなよ」
「悪いな。まあ、そんなわけで俺は、それから蜂蜜が嫌いになったんだ。だから――」
トウジの声が途切れた。見ると、テーブルの一点を見つめている。俺もそちらに眼を移した。
小さな蟻が一匹、這い回っていた。
トウジの手が伸びる。彼が何をしようとしているのか理解できた。だから言った。
「やめろ!」
びっくりしたように彼の動きは止まった。
「これはおまえを噛んだ蟻じゃない」
新聞のチラシを使って、蟻をなんとか掬い上げた。そして窓から外に放り出す。
「虫も殺さないってわけか」
トウジが揶揄するように言った。
「そんなんじゃないよ」
俺は言った。
「蚊が俺の血を吸ってたら叩くし、蠅が来たら殺虫剤を撒く。でもあの蟻は、何も俺に悪いことをしていない」
「だから殺さない?」
「ああ」
それからふたりは何も言わずに朝食を済ませた。なんとなく、気まずい雰囲気だった。
トウジが帰った後、蜂蜜のチューブを持って外に出た。草むらの、蟻のいそうな場所で蜂蜜をひと滴、垂らした。
「家には来るな。いいな」
そう声をかけて、部屋に戻った。
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