ショートショートの炊き出し『友達のこと』その10
『レスラー――トモヒロのこと』
場内が暗くなる。観客たちが期待に満ちた歓声をあげた。
次の瞬間、稲妻のような青い閃光が私の眼を射た。
おどろおどろしい音楽とともに入場口から巨大な男が姿を現す。歓声が一際大きくなった。
男はゆっくりと客席の間を歩み、ロープをまたいでリングに上がった。フードのついた黒いコートを着ている。
そのコートを脱いだ瞬間、さらに大きな雷鳴と歓呼の声が私の鼓膜を震わせた。
岩のような筋肉で全身を覆われた男が両腕を広げ、天に向かって威嚇の叫びをあげる。
リングネーム、ザ・タイラント。地獄の底から甦った暴君という設定のプロレスラーだ。
今日の対戦相手は空中戦を得意とする若手の雄、スターウォーカーだった。向かい合うと子供と大人くらいの差がある。しかしスターウォーカーは怯む様子もない。
ゴングが鳴る。スターウォーカーは敵の足元を崩すために細かくローキックを入れながら責めたててくる。が、タイラントは動ずる様子もなく相手に迫り、その頭を鷲掴みにすると片手だけでリングの外に放り投げた。まるで人形を扱うかのようだった。
空中で体勢を立て直して着地したスターウォーカーは、すぐさまコーナーポストに駆け上るとミサイルキックを繰り出す。それをまともに受けたタイラントは、ふらつきながらも持ちこたえる。スターウォーカーは続けざまにキックを打ち込み、ついにタイラントをひざまずかせる。勢いに乗ったスターウォーカーは顔面キックを狙うが、それより早くタイラントが彼の喉笛を掴み、高く掲げた。彼の得意技チョークスラムだ。これが決まれば試合は終わる。
が、スターウォーカーも巧みに体を捻って回避し再び攻撃に移る。
こうして一進一退の息詰まる攻防が続いた。タイラントはスターウォーカーを再度リング外に投げ落とすと自身もリングを降り、更に攻撃を加える。スターウォーカーが客席に倒れ込み、パイプ椅子がなぎ倒された。こうして場外乱闘は観客をも巻き込むことになった。
ふたりのレスラーは戦いながら観客を蹴散らしていく。観客のほうも慣れたもので、ひょいひょいと逃げながら戦うふたりを遠巻きにしていた。
そして彼らは、私が座っている席に近付いてきた。
タイラントに張り倒されたスターウォーカーが私にぶつかりそうになる。それを避けると、今度はタイラントが飛び込んできた。これもぎりぎりでかわした。組み合ったふたりは私の真横で殴り合いを始める。そしてタイラントの振り上げた腕が私のこめかみにヒットした。
壮絶な衝撃に脳が揺れる。思わず倒れ込んだ。
よろよろと起き上がると、再びタイラントの太い腕が目の前に迫っていた。本能的にそれを避け、勢い余ってつんのめったタイラントの背中に、思いきり蹴りを入れた。客席からのどよめきが聞こえる。
タイラントは向き直り、私に向かって火でも吹きそうな眼付きで睨みつけてきた。私は後ずさり、走り出した。
怒号に振り返るとタイラントが追ってくる。客席の間を縫うように走り逃げる。目の前にリングがあった。思いきりジャンプして飛び乗った。
私は、リングの中央に立った。
タイラントもリングに上がる。私を見据え、大きく腕を振って威嚇してくる。
私は背広を脱ぎ、ネクタイを緩めた。
タイラントは腕を水平に上げて突進してくる。彼の必殺技のひとつ、アルティメット・クローズラインだ。ぎりぎりのところで逃げる。
ロープに沿って逃げ回った。足は私のほうが早かった。何度も攻撃をかわされたことでタイラントの怒りはさらに増していた。顔を紅潮させ鬼のような形相だった。
場外に逃げようとロープを潜った、その動きに一瞬早く反応したタイラントが、ついに私の体を捕らえた。巨大な手が私の肩を掴みリング中央に引きずり戻す。私はがむしゃらに手を振って逃げようとしたが、敵わなかった。
彼の手が私の喉を捕らえた。気管が塞がれ、たちまちのうちに顔が充血するのを感じた。そのまま天井高く持ち上げられた。
そのまま叩き落とされそうになる寸前、タイラントの体が激しく揺れ、喉を掴む力が緩んだ。私はマットに倒れ込み、激しく咳き込んだ。
顔を上げるとスターウォーカーがタイラントの頭にしがみついていた。スリーパーホールドだ。タイラントは敵をなんとか振りほどこうとしていたが、スターウォーカーの腕は彼の顎をしっかりと捕らえて放さない。小兵でも敵を沈めることのできる効果的な技だ。
やがてタイラントががっくりと膝をついた。意識が朦朧としているようだ。スターウォーカーは腕を離し、私を指差した。続いてその指先をコーナーポストへ。
私は自分を指差し、彼の意図を確認した。スターウォーカーは大きく頷く。
おっかなびっくりの格好でポストに昇った。天辺に立つと体がふらふらする。すでにスターウォーカーは天辺に立っていた。そして私を見つめ頷いた。
思いきり飛んだ。
私とスターウォーカーのダブルミサイルキックが、同時にタイラントの顔面を捕らえた――。
その二時間後、私は体の痛みを堪えながら居酒屋でビールを飲んでいた。
気配に気付いて振り向くと、後ろに巨躯が立っていた。
タイラントだ。
彼は私を無言で見つめていた。私も何も言わなかった。
そして彼は、向かいの席を腰掛けた。
私はテーブルの枝豆の皿を彼に差し出した。
「ビールでいいか」
彼は頷く。店の子に大ジョッキをふたつ頼んだ。
届いたジョッキを持ち、彼に言った。
「お疲れさん」
彼もジョッキを持ち、私のジョッキに軽く合わせた。そして言った。
「今日は、ありがとう」
「これくらいなら、俺みたいに引退した人間にもできるさ。今日は盛り上がったな」
「君のおかげだ」
「いや、おまえの力だよ。一緒に入門したときはひょろひょろののっぽでしかなかったおまえが、今やザ・タイラントだ。立派になったもんだ」
「君こそ肩を痛めなければ、今頃――」
「それは言うな」
私は彼の言葉を遮った。
「今日はその話は無しだ。飲もうかタイラント、いや、トモヒロ」
私とトモヒロはその日、夜明け近くまで飲んだ。
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