ショートショートの炊き出し『友達のこと』その8
『桜――カトリナのこと』
母から送られてきた荷物の中身は、畑で採れたミカンと冬物のセーターだった。
添えられた手紙には、慣れない土地で苦労していないかと案じている、正月には必ず帰ってくるようにと綴られていた。心配性の母らしい文面だ。
こちらで就職すると決めたとき、ひどく反対されたことを思い出す。大学を卒業したら家に戻ってくるものと考えていたらしい。そのことでしばらくは侃々諤々のやり取りが続いた。今は落ち着いているように見えるが、本心ではまだ許してはいないと思う。
僕は苦笑しながらセーターを取り出した。
と、畳まれたセーターの間から紙の束が落ちた。
封書や葉書の束だった。どれも僕宛だ。実家に届いたものだろう。
ほとんどがつまらないダイレクトメールばかりだった。こんなものまで後生大事に送ってこなくてもいいのに、と思いながら一通ずつ捨てていく。
残ったのは白いエアメールが一通。送り主の名前を見た瞬間、あ、と思った。
カトリナ……。
一瞬にして記憶が甦る。中学の頃、文通をしていた相手だ。フィンランドの女の子だった。英語の先生の紹介で海外の同年代と文通をすることになり、同じく英語を勉強していた彼女と今どき珍しい手紙のやり取りをすることになったのだった。
英語で文章を書くのも難しかったが、女の子に手紙を書くのも大変だった。一通の手紙に数週間の時間を費やしたことを覚えている。返事が届くのはさらに数週間、あるいは数ヶ月の後だった。彼女も英語は不得意なのか、僕と同じくらい拙い文章だった。
僕たちは互いの国のことや日常のことについて、あれこれと伝えあった。フィンランドでは太陽の沈まない白夜という期間が一ヶ月近くあるということ、カンテレという民族楽器があって彼女はその勉強をしていることなどを教えられた。僕は家の近くに桜で有名な公園があること、その桜がとても好きだということ。ギターかベースかで迷って楽器には手を出していないことを書き記した。
やり取りは十回近く続いたと思う。高校に入学し同級生の女の子と付き合うようになってから、なんとなくカトリナとの文通が面倒になってきて間が開き、結局自然消滅した形だった。
そのカトリナから手紙がきた。今頃なんだろうかと訝りながら封を切った。
水色の便箋に昔と同じく丁寧なアルファベットが綴られていた。
ひさしぶりね。元気だったかしら?
わたしは今、ヘルシンキの大学に通ってるわ。心理学の勉強をしているの。それと同時にカンテレの勉強も続けているわ。今度わたしたちのグループが日本へ演奏旅行をすることになったの。そのときに貴方と会えたら嬉しいわ。
カレンダーを見た。彼女の来日は……一週間後だ。
演奏会が行われる会場は、偶然にも僕のアパートから地下鉄で二十分ほどの距離にある。
インターネットで検索し、その演奏会のチケットがまだ入手可能であることも確認できた。マウスを動かし、購入手続に進むボタンにポインタを合わせる。そこで、手が止まった。
どうする? 本当に行くつもりなのか?
カトリナとはもちろん一度も会ったことはない。写真の交換もしていない。そんな相手に会いに行くつもりなのか。今更会ってどうするんだ……。
そんな思いが脳裏を過る。
やめよう。手紙は見なかったことにして、このまま忘れてしまおう。僕もカトリナも、昔の思い出だけを心に仕舞っていればいい。
そのままウェブのページを閉じた。
でもそれから、仕事をしていても家に戻っても、心の隅の妙なわだかまりが気になってしかたなかった。焦りのような後悔のような、なんともいやな感じだ。その原因が何なのか、僕にはよくわかっていた。
そして当日、僕は結局仕事を終えると大急ぎで演奏会のある会場へと駆けつけてしまった。
小さな公民館だった。「フィンランド音楽の夕べ」と題されたポスターが貼られていた。そのポスターに書かれていた。
当日券あり。
窓口で一枚買って、中に入った。客席は八割方の入りだった。
舞台に七人の女性が立った。バイオリンとアコーディオン、そして小柄な琴みたいな楽器を手にしている。みんな僕と同年代くらいの女性だった。
拍手の後、演奏が始まった。初めて聴くフィンランドの音楽は素朴で、しかし複雑な旋律を持っていた。特徴的なのはやはり小さな琴のような楽器で、どこか切ない音色を奏でる。
これがカンテラだろうか。だとすればあの楽器を演奏している髪の長い女性がカトリナなのか。僕は眼を凝らして舞台を見つめた。
何曲か演奏した後、カンテラを演奏していた女性が立ち上がり、マイクに向かって何か語りかけた。もちろん何を言っているかわからない。その後で日本人通訳が言った。
「次の曲は日本の曲です。日本ではこの花がとても愛されていると聞きました。日本の友人からです。その友人のために演奏します」
そうして演奏されたのは「さくらさくら」だった。
ああ、と僕は思った。彼女は、カトリナは覚えていてくれたのだ。
演奏会が終わった後、楽屋に向かった。
だが楽屋のドアを前にして、立ちすくんだ。何と言って声をかければいいのかわからなかった。
躊躇の後、もう帰ってしまおうと踵を返しかけたとき、ドアが開いた。
出てきたのは、カンテラを演奏していた女性だった。彼女は驚いたような顔で僕を見て、そして、すぐに僕の名前を口にした。
頷くと、彼女は笑みを浮かべて僕を抱きしめた。
「アイタカッタ」
日本語で告げた後、英語で言った。
「あなたに会ったときのために、この日本語を覚えていたの。もうひとつ覚えた言葉があるのだけど、聞いてくれる?」
もう一度頷くと、彼女は言った。
「アナタノ、サクラガ、ミタイ」
桜の季節に、彼女はまたやってきた。
僕は彼女を故郷の小さな町に案内した。
公園の満開の桜を見て、彼女は眼を見張った。
「信じられない。こんな景色が、この世にあるなんて」
カトリナは桜が散るまで町に留まった。僕たちは毎日のように一緒に花の下を歩いた。
葉桜が目立つようになった頃、彼女は言った。
「来年の桜も見たいわ。その次の桜も、その次の次の桜も」
そして今、僕たちは一緒にあの桜を心待ちにしている。
彼女にとっては三度目の、そして生まれてくる僕たちの子供にとっては、初めての。
もうすぐ、桜が咲く。
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