ショートショートの炊き出し『友達のこと』その9
『先生――ヒサオのこと』
ヒサオに会いたければ音楽室に行けばよかった。
他に誰もいない部屋にひとりだけ残って、いつも楽器を磨いたり、ただぼんやりとしている。
「先生」
と声をかけると、びっくりしたような顔で振り向いて、それから笑顔になる。
「なんだ、どうした?」
音楽の教師とは思えないだみ声だった。ベートーベンを真似てるようなぼさぼさの髪で、着ているのはいつも青い服。青いセーター、青いジャケット、青いTシャツばかり。体は小さくて、顎と鼻の下にもじゃもじゃと髭を生やしている。見た目は奇妙なおっさん。
それがヒサオだった。
陰では誰も苗字では呼ばない。ヒサオ、と呼び捨てだった。
「これ、返す」
俺は借りていたCDを手渡す。
「お、どうだった?」
「よかった。ボーカル、結構好きだな」
「そうだろ。いいだろ」
ヒサオは相好を崩す。
そのとき借りていたのはレッド・ツェッペリンという昔のバンドのCDだった。授業ではモーツァルトとかブラームスの話ばかりで授業中に流す音楽もクラシックばかりだけど、本当はヒサオはばりばりのロックファンだった。そのことを知っているのは、学校ではたぶん俺だけ。
俺たちはよくロックの話をした。ヒサオは若い頃に聴いていた昔のバンドの話、そして俺は最近のバンドの話。ときどき噛み合わなくておかしくなるけど、それでも話しているのは楽しかった。
話に興が乗ってくると、ヒサオの声は高くなる。
「そうそう、あの頃ってプログレが全盛でさあ」
「プログレ?」
「プログレッシブ・ロックだよ。イエスとか貸しただろ」
「ああ、ああいうのね。ちょっとわかりにくい」
「だろうな。プログレを聴くには教養が要る」
ヒサオは得意気に眉を動かした。
「でも、おまえみたいな初心者でもわかる曲もあるぞ。たとえば……」
傍らに置いてあったギターを引き寄せると、ヒサオは弾きはじめた。
静かな出だしの曲だった。しばらくギターの演奏が続いたあと、ヒサオが英語で歌いだす。意外なくらい渋くていい声だった。普段のだみ声が嘘のようだった。
しばらくの間、俺はヒサオの歌を聴いていた。もちろん歌詞なんてわからない。ただ途中の「I Wish You Were Here」というところだけは聞き取れた。
歌い終わるとヒサオは、どうだというような眼で俺を見る。俺は素直に感動したとは言えなくて、ちょっと斜に構えた感想を言った。
「ラブソングかよ」
「違う。この歌はそうじゃない。今は傍にいない友達のことを歌ったものだ」
それだけしか言わなかった。
そんなヒサオとの付き合いは、俺が卒業するまでの半年くらい続いた。
卒業式の日、ヒサオはピアノで「仰げば尊し」の伴奏をした。黒いスーツ姿のヒサオは、なんだかとても滑稽で、でも寂しそうだった。
卒業から二十年後、同窓会があった。
集まった連中は、すごく変わった奴もいたし、あまり変わってない奴もいた。
でも話を始めるとみんな、あの頃に戻ったかのようだった。
俺はみんなに訊いてみた。
「ヒサオって覚えてるか」
みんな奇妙な顔をした。
「ヒサオ? そんな奴クラスにいたっけ?」
「違う。生徒じゃない。先生だ」
「ヒサオ……覚えてないな」
音楽の教師をしていたと言っても、思い出さない奴のほうが多かった。
「音楽の先生なんて誰だったか覚えてない」
結局、ヒサオのことを俺と話せる奴は、誰もいなかった。
家に戻ってから俺は、その年にもらった年賀状の束を取り出した。一枚一枚確かめ、そして見つけた。
小さな犬を抱いた老人の写真が印刷された一枚。老人の髪も髭も真っ白だった。
でも、変わっていなかった。
裏返すと住所の傍らに書き込みがある。
“教師を退職して八年、今は老妻老犬と悠々自適の生活です。でもときどきロックしてます。”
「ロックしてます、か……」
俺は年賀状を戻し、CDラックを開いた。
目当ての一枚はすぐに見つかった。
プレーヤーにセットして選曲する。ラジオをチューニングするような音が聞こえた後に、あのギターのイントロが流れてきた。
Wish You Were Here
あなたがここに、いてほしい。
あの日の、音楽室の午後のことを思い出した。
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