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『ミステリなふたり a la carte』が文庫では『ミステリなふたりア・ラ・カルト』と表記を変えました。
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「シン・ゴジラ」を二度、観た。興奮が治まらない。
つい勢いに乗ってツイートしたら、ネタバレ気味だと指摘されてしまった。言いたいことをネタバレ抜きで話すことは、この映画の場合とても難しい。
なので、ここではネタバレありで思うところを書いてみようと思う。
まだ観ていないひとは、ここから先は読まないでください。
最初に「シン・ゴジラ」のゴジラ造形を観たとき、正直「マジかよ」と思った。あまりにグロテスクで、これまでのゴジラの概念から外れていたからだ。また庵野秀明はおかしなことをするんじゃないか、中途半場なものを作ってゴジラのイメージだけ壊したりするんじゃないかと危惧した。
しかし劇場で実際に映画を観た後は、自分の認識不足を恥じることとなった。中途半端なんてものじゃない、庵野総監督は僕らオールドファンが抱いているゴジラ像を徹底的に壊し、再構築したのだ。
おかげで観客は、この映画でゴジラと「初体面」を果たすこととなった。昭和29年に「ゴジラ」第一作が公開されたとき、当時の観客がこの怪獣と初めて出会ったのと同じように。
「シン・ゴジラ」公開の前にとても象徴的なことがあった。ゴジラ映画第三作「キングコング対ゴジラ」が4Kリマスターの完全版として蘇ったのだ。
僕は2Kダウンコンバートで放送されたものを観たのだけど、それでも画像が本当にクリアで驚いた。カットされていた部分も復活した完全版はストーリーもすこぶる面白く、この作品が日本映画の収穫のひとつであることを再認識させてくれた。
ただ、観ていて思ったことがある。
この映画でのゴジラは「ゴジラ」「ゴジラの逆襲」に登場した恐るべき化け物ではない。たしかに街を破壊はするけど、愛らしいと表現できる顔つきやコミカルな動きなど、親しみやすさを感じるところも多い。おまけに放射能の恐怖についても言及されることはなくなった。恐怖の要素を完全に抜き取られ、キャラクター化されてしまったのだ。
繰り返すが「キングコング対ゴジラ」は傑作だ。この作品の成功があったからこそ、以降も怪獣映画が作られ続け、日本は怪獣大国となった。しかしこの映画以後の怪獣はすべてキャラクターとして扱われるようになったのも事実だ。ソフビ人形となりぬいぐるみとなり、キーホルダーとなって人々に親しまれた。だからこそ長生きできたのだけど、そこにはもう第一作で感じさせた恐ろしさは微塵も存在しなかった。
1984年の「ゴジラ」以降、恐怖の存在としてのゴジラを復活させようとする試みは何度も繰り返された。しかしながら一度キャラとして認識されてしまうと、恐怖をまとわせることは無理になる(昨今の貞子のキャラ化なんて、そうですよね)。ゴジラはかっこいい存在にはなれても、怖いものにはなれなかった。もう第一作のような恐怖映画の主人公になることは不可能だと思われた。
そこに「シン・ゴジラ」だ。
庵野秀明はまず造形から変えた。親しみやすさを一切排除し、キャラクター化を拒絶するようなゴジラを作り上げた。
それは第一作のゴジラと同じアプローチだ。最初のゴジラの皮膚のゴツゴツした質感は被爆によるケロイドをイメージさせている、というのは有名な話だが、シン・ゴジラの表皮はそれを上回るグロさで表現されている。そしてあの顔。ぎりぎり生物であることがわかるような眼と乱杙歯。これはとりもなおさず、初めて「ゴジラ」を観た人間が感じた恐怖(嫌悪感とも言える)を再現するものだ。
こんなゴジラを創造しただけでも、この映画の成功は約束されていたかもしれない。
しかし庵野秀明はゴジラ造形を凌駕する独創的な手腕をストーリー作りに発揮した。
怪獣映画の定番ともいえる登場人物(天才的だけど奇矯な科学者、恋する若い男女、子供、など)を一切排除し、ゴジラに対処する為政者や自衛隊を人間側のメインに置き、徹底したリアリズム演出で物語を押し進めたのだ。
結果、「シン・ゴジラ」は日本映画特有のセンチメンタリズムを拒絶した。これは歴史的な事件ではないだろうか。登場人部が誰ひとりとして泣き叫ばない日本映画なんて、そうそうあるものじゃない。
二度目にこの映画を観た後、地下鉄に乗った。電車に揺られているとき不意に「今、地上でゴジラが暴れてるんじゃないか」という妄想がふと湧いて出た。
さらに家に帰ってきたとき、改造内閣の組閣人事が発表されたというニュースを観て「ああ、首相はじめ主立った閣僚はみんな死んじゃったからなあ。早いとこ新しい閣僚を決めなきゃなあ」と、わりと普通に思ったりもした。そして、はっとした。
この映画のポスターに掲げられたコピーは「現実対虚構」だった。まさに今、自分が現実と虚構が拮抗する場にいるような気がした。
それほどまでに力のある作品なのだ。
僕はこの映画を二度、観た。これからも何回も観るだろう。
(補足)
一点だけ、映画を観た後の不満について書き記しておく。
それは石原さとみをネイティブのアメリカ人に設定したことだ。
たしかに彼女は流暢に英語を喋ってはいたけど、それでもネイティブの発音ではなかっただろう。この映画が英語圏で公開されたとき、この点で観客がしらけてしまう危険がある。
せめて海外経験の長い日本人、くらいに設定できなかったかな、と思う。
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